さっしいの鉄道風景 <昭和57年(1982) 12月>
⇒ ぽこぺん
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まず言い訳から…ですが、フィルムの変色は如何ともし難く、今回も色調の補正を試みてはみたものの、その努力も報われず、結果は「悲惨な戦い」に終わりました(若秩父のマワシが落ちると共に、写真の色も落ちてしまいました)。さて、なぜこの日は三島に?…ということになりましょうが、第2子誕生の報を聞いて名古屋へ駆け付けたのが7日の午後。そして今日も病院に寄って次男と妻の顔を見てから、新幹線「こだま」号に乗って…はい、途中下車してしまいました。転んでもタダでは起きない27歳は、2児の父親、3時のあなた(意味不明?)。それよりも、待機中の伊豆箱根鉄道駿豆線の1000系は、ラッキーなことに、憧れの大目玉電車でした。昭和38年製の第1編成でしょう。
左の1000系は、手前から「モハ1002-サハ2001-モハ1001」で、他とは違う「Mc-T-Mc」の編成です。正面の顔付きは西武701系にも似ていますが、製作時期が同じですね。自分としては、こちら1000系の方がセンスは良く思えますし、大目玉の方がバランスも整っているように感じます。いつの間にか隣には、異彩を放つ電車が並んでいました。昭和54年に登場した3000系の内の、この年(57年)に誕生したばかりの第4編成(クハ3504-モハ3008-クモハ3007)です。3000系は、伊豆箱根鉄道初のカルダン駆動やワンハンドルの操作方式を採用し、冷房装置も搭載した意欲的な新形車輛で、この時代以降、駿豆線の主力として活躍することとなります。
この日の行動をはっきり覚えてはいませんが、この写真は、どうやら上り列車の最前部から撮ったもののようですね。三島からは下り列車に乗ったはずですから、まず終点の修善寺までの全線を「完乗」し、上りの三島行きで戻ったのだと思います。駅は「牧之郷」らしく、交換する下りの修善寺行きの1000系は、おでこの大型方向幕など、先ほど見た第1編成よりも更に西武701系に近いスタイルで、第4編成とは違って戸袋窓がありますから、昭和44年製の第3編成(クハ2003-モハ1006-モハ1005)でしょう。車内はロングシートだそうです。色の再現度は…まぁまぁでしょうが、やはり無理やり補正なので、3年前に乗った時の写真もご参照ください。
上りの電車に乗って「大場(だいば)」駅の2番線ホームに到着するところですが、下りの1番線には3000系の姿が見えますね。先頭がクハ3504ということは、先ほど三島駅で1000系の隣に並んでいた編成ですね。その時も今も方向幕の表示は「回送」ですから、もしかしたら、この年にできたばかりの同編成にとっては、試運転のような運用だったのかもしれません。ともあれ、日が沈むまでにはまだ少し時間があるので、この駅で降りてみることにします。一生の内で、そう何度も取得することのできない貴重な「配偶者出産休暇」を、今日は有効に使いたいもの…って、目的外使用? さて、極端に色の状態の悪いネガもこの1枚で終わり、次回からは、少しはマシな画像に戻れると思います。
大場駅で降りて線路沿いに北へ少し歩くと、伊豆箱根鉄道の本社前あたりのポイントから左へ分岐する線路があり、この写真の左手前にも少しだけ写っていますが、車庫(大場工場)に繋がっています。留置線が1本だけ並行している本線の方に目をやると、3000系の下り列車がやって来ました。クハ3502-モハ3004-クモハ3003という第2編成です。地方私鉄では良く見られる付番法ですが、電動車・制御車それぞれが製造順の連番となるので、電動車2両に対して制御車1両という組合せの固定編成では、編成内の末尾がズレて行きます。制御車(クハ)の番号末尾は編成番号と一致しますが、電動車は大きい方の数字(この場合は3004)の末尾が、その2倍になっているわけですね。
伊豆箱根鉄道駿豆線の車庫(大場工場)を見学させて頂きます。まず目に留まったのは、地方私鉄としては立派な、40t級の凸型の電気機関車です。ED31形の32号ということですが、昭和23年東芝製で、元は西武鉄道の車輛でした。戦後、国分寺線(当時は川越線の一部)の電化に際して31~33号の3両が製作されたものの、32号は逸早く、翌24年に600Vへ降圧の上、駿豆鉄道(後の伊豆箱根鉄道)へ貸出され、その後、33号と前後して正式に譲渡され、ED32・33となりました。昭和34年には駿豆線の昇圧に伴って再び1500V仕様に戻され、47年まで運転されていた貨物列車や、国鉄から直通の客車列車の牽引等に活躍しました。その後も長く、現役として頑張っているようです。
既に夕暮れとなり、西向きに撮ったこの写真はモロに逆光ですが、当時の駿豆線の主力車輛が顔を揃えています。右端の1000系は、写真では肝心な側面が良く見えませんが、戸袋窓の無い昭和46年製の第4編成(クハ2004-モハ1008-モハ1007)でしょう。洗浄線にいるのは、先ほどから三島・大場をウロウロしている3000系の第4編成。その隣は…どう見ても西武鉄道の電車ですね。昭和50年から54年にかけて西武501系電車を10両譲受し、伊豆箱根鉄道1000系の第5~7編成(3両3編成)となっていましたが、これは昭和52年に譲渡された第6編成(モハ1012-サハ2007-モハ1011)だと思われます。…ん? 左端に鎮座しているのは?
前回の写真の左端に見えていたのは、台車など下回りの無い車体だけが置かれた、いわゆる「ダルマさん」でした。クハ71の廃車体です。伊豆箱根鉄道の20m制御車クハ70形は全車、元は国電(省電)ですが、72~76は西武鉄道を経て転入して来ました。それに対し、このクハ71だけは昭和28年に国鉄から直接譲渡された車輛で、元は2扉クロスシートだったサハ48形(48013)を、独特の窓配置の3扉ロングシートに改造して導入しました。サハ48形は横須賀線用に作られた32系の付随車で、昭和5年度に18両、翌6年度に10両作られています(後に関西用の52系の付随車としても製作)。駿豆線では上り(三島)方の制御車として使用。前面が非貫通となっていた時代もあったようです。
先ほど見たED32と同時期に生まれた兄弟分のED33が、傾きかけた冬の西日を体いっぱいに浴びています。もちろん同じ(昭和23年)東京芝浦電気製の、元は西武の機関車で、ED32の後を追うように、こちらは昭和27年に駿豆鉄道へ譲渡されました。降圧・昇圧の経緯もED32と同様です。31~33号として誕生した三兄弟の残りの一人、西武31号電気機関車は、E32に改番の後、昭和32年に遠州鉄道に譲渡されてED21形(212)となりましたが、そちらは運転席の前方中央に、新しく窓が設けられています。中央部が塞がれていては、前方が見にくかったのでしょうか。右奥にいるのは伊豆箱根鉄道のバスですが、一瞬、電車に見えてしまいました。
西武501系そのままの、伊豆箱根鉄道1000系の(おそらく)第6編成。ヘッドライトはシールドビームに交換されているようです。ただ、西武501系として活躍していた頃の写真と比べてみると、前面の表情の微妙な違いに気が付きます。手すりと言うのか足掛けと呼ぶのか、その突起がかなり省略されていますね。この差は西武時代からあったかどうか不明ですし、製作時期の新旧によるものか、それとも一部の車輛だけが変更されたのか、そのあたりの事情も把握できていないので、ご存じの方に教えて頂けると有難いです。伊豆箱根鉄道が譲受した3編成のうち、突起が多いタイプは第5編成だけで、それに対し、この「のっぺり」顔は、第6・第7の2編成が該当したようです。
さて、この車輛は? 今回一番の謎だったのですが、まず現役なのか、それとも廃車体なのか。下回りは健在のようですが、倉庫として使われている様子もあり…。車体の側面に書かれた車号はクハ(?)「26」もしくは「28」のように見えますが、パンタ台があったようにも窺えます。クハ26なら大雄山線の昔の電車で、見た目は異なり、28も同じく大雄山線で183に改番されていて、これも外観が違います。車体の形態からは、駿豆線に最後まで残った50形のモハ53あたりに見えるのですが、だとしたら、この年の9月に廃車となっていたようですから、その点だけは合うかもしれません。前照灯は取り外され、その下の番号は塗り潰されているので、少なくとも現役の車輛ではなさそうですね。
大場工場に別れを告げ、駿豆線の線路沿いを北へ少し歩いてみました。すぐに田園地帯となって、線路は大きく左へカーブ。左の奥には…う~ん、目を凝らせば、辛うじて、うっすらと富士山が見えますが、本来なら、その秀麗な姿が電車の背景に写り込み、自分にしては珍しく、雄大な自然の風景と共演する典型的な「鉄道写真」が撮れる…はずの場所でした。比較的空気の澄んだ冬の日でも、気温は高めだったのか、どんよりと霞が掛かったようになってしまって残念です。そんな中をこちらへ走って来る下り列車は、国鉄185系の5連。熱海で伊東線に入る本編成と分割し、丹那トンネルを抜けて三島から駿豆線に乗入れて来た、特急「踊り子」号の付属編成ですね。
国鉄のL特急「踊り子」号が走り始めたのは、1年前の昭和56年10月のことでした。写真の日のダイヤは不明ですが、近い時期の資料によれば、東京駅13時30分発の「踊り子15号」があったようです。最盛時には熱海までを在来線の特急で最長の15両編成で走り、分割した伊豆急下田行きの10連を先行させた後、15時ちょうどに発車。三島を15時13分に出て、三島田町は21分、この先の大場は15時26分発となっています。駿豆線内を走る自社の列車は3両編成ですが、こちらは堂々たる国鉄車輛の5両編成、クハ185-サハ185-モハ184-モハ185-クハ185。手前の3両は自由席で、後方の2両が指定席です。自分も、この4年後の年度末には、職員の親睦旅行で利用することになります。
この写真も、目を凝らせば何とか、うっすらと富士山の姿が…。う~ん、悔しいですねぇ。さて、特急「踊り子」号の後を追って来た修善寺行きの下り列車は、西武501系を譲り受けた1000系の3連です。先ほど大場工場で見た編成とは違い、先頭車は前面の手すりの突起が多いタイプなので、第5編成(モハ1009-サハ2005-モハ1010)かと思われます。昭和50年に西武から、クモハ529-サハ1529-サハ1530-クモハ530の4連が、貸し出された後に譲渡され、サハ1530を抜いた3連で使用されています。西武501系は三岐鉄道にも譲渡されていますが、そちらも手すりの多い前面でした。どうやら、こちらが標準タイプで、ノッペリの方が異端車、または改造形だったのか?
三島を目指して走り去る上り列車。3000系ですが、昭和54年製の第1編成です。手前(最後尾)はクハ3501で、先述の法則を当てはめると、その前の中間電動車はモハ3002、最前部の制御電動車がクモハ3001…だということが分かります。3000系は毎年1編成ずつ増備され、4年目に当たるこの年(昭和57年)には、この日何度も見た第4編成が作られました。ここまでの4編成は外観上の違いは殆ど無いようですが、この5年後以降に増備された第5編成と第6編成はステンレスの車体となりました。また、車内はセミクロスシートですが、昭和63年には、一部座席指定の快速列車に使用するため、この写真の中間電動車モハ3002の扉間の座席は、転換クロスシートに改造されます。
今度の下り列車も西武501系を譲り受けた1000系ですが、ラストの第7編成(モハ1014-サハ2008-モハ1013)でしょう。昭和54年1月に西武のクモハ527・528の2両を譲受し、前回(昭和52年)の編成から抜き取られていたサハ1522を加えて、3両編成を組んでいます。先頭のモハ1014の前面は、先ほど大場工場で見た第6編成と同様に手すりが少なく、良く言えばスッキリ、悪く言えばノッペリした表情ですね。こちらの方が、より洗練された顔付きという印象があります。西武501系は総武流山電鉄にも譲渡されて1200形となっていますが、流星号・流馬号・銀河号・若葉号、どれも前面は手すりの多いタイプです。西武501系の譲渡車は、駿豆線の2編成だけがスッキリタイプのようですね。
三島行きの上り列車でしょう。モハ1001-サハ2001-モハ1002という1000系の第1編成ですから、この日最初に三島駅で出会って修善寺まで乗車し、折返して途中の大場まで乗って来た編成のようです。パンタの位置からもMc-T-Mcという編成だと分かりますが、3000系と異なり、1000系では制御電動車でも「クモハ」という形式称号は使用しなかったようですね。9年後の平成3年に両端の2両は大井川鉄道に譲渡され、モハ1002は電装を解いてクハ2001となります。残念なことに平成10年、元・北陸鉄道のアルミ車「しらさぎ」号の6010系と連結した編成で脱線事故を起こし、しばらくは新金谷駅の側線に留置されていましたが、損傷が大きく、再起できずに廃車となりました。
画面中央に富士山の姿が…う~ん、薄っすらと背後霊みたいに写っているのですが…。修善寺行きの下り列車は、クハ3503を先頭とする3000系の第3編成でした。これで今日、4編成全てを見たことになります。さすが最新鋭の車輛たち。大活躍ですね。これまでと違う、前照灯と尾灯の横並び。そして車体にはライオンズブルーを纏った3000系は、「いずっぱこ」の新しい顔となりつつあるようです。尚、行先の駅名も現地の地名も、漢字の表記は「修善寺」ですが、温泉街の中にあって、源頼朝の弟の範頼、続いて息子の頼家が幽閉され、共に後に暗殺されたと伝えられるお寺については、同じ「しゅぜんじ」でも、漢字では「修禅寺」と書きます。
1000系第3編成との2回目の出会い。そろそろ駿豆線ともお別れですが、ここで歴史を、ざっと振り返っておきましょう。三島と修善寺を結ぶこの路線は全て昔の「伊豆国」を走っています。それなのに駿河と伊豆を結ぶが如き「駿豆線」という名称ですね。元はと言えば、明治31年に「豆相鉄道」(「相模国」まで登場?)が現在の三島田町と伊豆長岡間に蒸気鉄道を開業したところから始まります。両方向へ延伸して官鉄の三島駅(現・御殿場線 下土狩)~大仁の路線となった後、「伊豆鉄道」に譲渡。それとは別に明治39年に三島・沼津間に軌道線を開業していた「駿豆電気鉄道」が、45年にその鉄道線を譲受し、それを大正5年に「富士水電」が合併しました。複雑な経緯は、次回へ続きます。