さっしいの鉄道風景 <昭和58年(1983) 1-12月>
⇒ ぽこぺん
昭和 42/8
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独り暮らしで始まった昭和58年。大掃除や年越し蕎麦や初詣やお節料理やお餅など、家のことを気にしなくても良い年末年始は気楽でしたが、さすがにお雑煮くらいは食べたくなったようで、元日に調布の実家を訪ねました。酒ばかり飲んで、その晩は泊り、翌日は靖国神社へ詣でた後、千鳥ヶ淵を散歩。半蔵門から直通電車に乗って、田園都市線の終点「つきみ野」に着いたところです。ここまでは昭和51年に開業していますが、小田急江ノ島線の中央林間までの一駅は長いこと(昭和59年まで)開通しなかったので、15分ほど歩いて乗換えていました。今日は瀬谷の自宅へ帰りますが、明日は幼い息子たちに会いに、名古屋まで行こうと思います。…あ、妻にも…でしたね。桑原桑原。
自分一人なら、東海道は在来線の旅に限ります。藤沢から沼津行き。乗り継いで浜松へ。その途中、沿線の私鉄を眺めるのも楽しみの一つです。2か月前は新幹線から遠目に見た岳南鉄道の「赤蛙」ですが、今回は間近に見ることができました。さすがは元東急の5000系。オレンジに白帯の塗装となっても、スタイルの良さは変わりませんね。東急時代の晩年の仕様で客用ドアの窓が小さいのは残念ですが、地方の小私鉄においては、僅か2両の編成でも、堂々たる姿に感じられます。あたりには製紙工場の異様な匂いが立ち込める地域ではありますが、徐々に改善されているようにも感じられます。岳南鉄道の5000系(2連4編成)も、この地で末永く活躍してほしいものです。
そう言えば、この岳南の「赤蛙」は昨年の夏、瀬谷の自宅から自転車で訪れた東急の長津田検車区で見ていました。その「自宅」ですが、同じ横浜市内の公団住宅に、今月中に転居することが決まっています。そんなこともあって、今年は年初から何かと忙しくなりそうですが、まぁ頑張りましょう。この日はこの先、あと1枚だけ鉄道写真を撮りますが、その後、下旬(29日)には自宅を引越して、新しい暮らしが始まります。子供が二人になったこともあって家族写真は増えますが、「鉄道写真」はパッタリ途絶えてしまいます。また、ビデオ動画もこれまで以上に撮るようになりますが、それらは今や再生すらできません。今にして思えば勿体ない日々でしたが、今更どうしようもありませんね。
金谷駅には、「謹賀新年」と干支の亥のヘッドマークを掲げた大井川鉄道の「あかいし」号が停まっていました。元は北陸鉄道の6000系「くたに」号で、11年前、ちょうど大鉄へ譲渡されたタイミングで出会っていますが、こちらではクハ6051-クハ6052となり、この当時は最後尾に連結されたモハ1906(元・小田急デハ1906)との3連で運転されています。大好きな電車でしたが、後には新金谷駅の大代川側線で朽ち果てることになってしまい(平成8年廃車)、残念です。この日、浜松からは117系の東海ライナーで名古屋へ。妻子と再会し、4日は天白区の塩竈神社にて次男のお宮参り。5日にはまた一人で横浜の瀬谷へ帰ります。そして下旬には妻子も帰宅し、そのままバタバタと引越へ。
1月29日に横浜市瀬谷区から、港南区の港南台団地に転居し、低層の公団住宅の3階で、階段を昇り降りする生活を送っています。2月には長男の2歳の誕生日。また、中学時代以来の鉄友である親友のK君が訪ねて来てくれました。一緒に都電や玉電を追った日々が懐かしいです。3月下旬には次男の「お喰い初め」に両親が来たり、様々な人たちが新居を訪れてくれる日々です。自分はと言えば、早速、それまで夢見ていたNゲージ鉄道模型のレイアウト建設に取り掛かりました。押入と壁際を利用したL型の敷地に、4箇所の駅を結んで長距離走行やダイヤ運転もできる線路配置。複線プラス単線に留置線も多い完璧なプランだと自画自賛するものの…果たして完成するでしょうか?
あっという間に昭和58年も半分以上過ぎて、港南台の団地暮らしにも慣れてきました。2歳と0歳の二人の息子を連れて家族で散歩に出る機会は多く、家族写真やビデオ動画はたくさん撮っていますが、このところ鉄道写真は皆無という状態です。夏休みも終盤となったこの日は、ひさしぶりに一人で、電車の写真を撮りに出掛けてみました。ところが40年以上経ってみると、ネガの状態は酷いことになっていました。これまでにも同様の事態はありましたが、この後もしばしば遭遇することになります。この先はまた、補正もできぬほど色調の悪い画像が続きますが、ご容赦ください。この日のスタートは、新しい自宅から徒歩40分程度で行けた、横浜市営地下鉄1号線の上永谷検車区です。
上永谷駅のホームが見渡せる高台へ来ました。野庭永作第二公園あたりからの眺めではないかと思います。前回は遠くに望んでいたイトーヨーカドーの広告塔を、今度は裏側から見ていることになります。上永谷駅高架ホームの2番線を発車した1000系は、横浜行きの列車でしょう。横浜の地下鉄も、この当時はまだ上永谷・横浜間(1号線・3号線)11.5kmだけの短区間の運転でした。この16年後の平成11年には湘南台からあざみ野まで40.4 kmの長大路線となり、後に「ブルーライン」という名になります。上永谷へは去年の3月にも家族で来て、写真を撮っていました。今日は一人ですが、これから地下鉄に乗って横浜市の中心部方面へ向かいます。
上永谷から乗った市営地下鉄を、吉野町で下車したようです。そこから北へ少し歩くと大岡川に出ます。「一本橋」の南詰あたりから「道慶橋」方面を望むと、こんな長閑な光景が展開しました。少女の黄色い服は、今回の補正によって色が抜けてしまいましたが、川に浮かぶ小舟で遊ぶのが日常らしい様子で、下町っ子の逞しさを感じます。10年後にはこの川沿いの学校に赴任することになりますが、子供たちは人懐っこく、人情の温かみが感じられる地域でした。着任時に色付き眼鏡をしていたせいで、生徒からは(土地柄か?)「親分」と呼ばれますが、それじゃ怖い人みたいで嫌だなと言うと、「おやびん」に変えてくれました。川の向こうの高架線を京浜急行1000形が走って来ます。
前回は東方向を望んでいましたが、同じ場所から目を西へを転ずると、「一本橋」という分かりやすい名の記された、そして、その名のイメージとは異なる、幅の広い立派な橋が架かっています。以前は市電も走っていた、4車線の道路です。高架線を行く京浜急行の下り列車は800形の急行。後部の方向幕表示は「逗子」となっているようですが、この時代の終点はまだ「逗子海岸」駅ですね。隣の「京浜逗子」駅と統合されて「新逗子」駅と改称されるのは昭和60年のことですから、もう少し先になります。ところで、800形と言えば、窓周りを白く塗られた塗装が印象的でしたが、昨年末に快特用の2000形が同色で登場したことにより、順次、この白帯塗装に変更されています。
いかにもこの地域らしい佇まいの家並の向こうの高架線を行く、京浜急行1000形。この東側(右手)にある黄金町駅を起点として「湘南電気鉄道」の路線が開業したのは、昭和5年4月1日のことでした。黄金町から浦賀までの本線と、途中の金沢八景から湘南逗子に至る支線が、1435mmゲージという標準軌で一気に開通。市街地を高架橋で抜け、縁辺部ではトンネルを掘り、築堤を設け、3.5km先の弘明寺(ぐみょうじ)駅の手前まで殆ど踏切の無い、高規格路線でした。手前の左の建物は「横浜書道教育会」。厳しそうなイメージの割には、布団の干し方など愛嬌がありますね。物干し台を備えた右の家屋も大変味がありましたが、両者併せて、今はこんな様子になってしまいました。
前回より少し黄金町寄りに移動しました。右下は「道慶橋」。昭和2年に震災復興橋として架橋されたものですが、元はと言えば、この地域の広大な入江が吉田新田として開発された江戸時代(万治元年:1658年)に、道慶禅師という旅僧が住民のために架けた木橋だったと言われています。橋の北詰には道慶地蔵尊が祀られていて、この写真でも自動車の向こうに小さな祠の屋根が見えていますが、分かるでしょうか? 高架橋の上を走り去る京浜急行は、品川行きの各駅停車800形の3連。この編成はまだ窓周りが白い塗装のままですね。この方がパッと目立って華やかで、自分としても好きなのですが、その塗装は優等列車用2000形の専売特許にしたいということなのでしょう。
大岡川沿いに少し下って、前回見た道慶橋を下流側から振り返ります。こちら側からだと、道慶地蔵尊の小さな祠も、はっきりと見えますね。高架橋上を走り去る下り電車は600形。三崎口か京浜久里浜行きの快特でしょう。三浦海岸行きも時々あったかもしれません。もっとも、「快特」とは呼ばれるものの、当時の正式な列車種別名は「快速特急」。快特専用の車輛として前年末に2000形が登場しましたが、それもまだ8連の1編成だけで、殆どが600形か1000形で運転されています。この日は、できれば2000形も撮りたいと思ったのでしょうが、そのために長い時間待つなどという気力は自分には無く、結局、見ることすらできませんでした。
黄金町駅まで来ました。橋上に島式のホームが見えます。奥へ続く道は「藤棚浦舟通り」。自分が立っている背中側は「太田橋」で、大岡川を北へ渡って来たことになります。プレートガーダーが看板代わりになっているのは、いかにも京浜急行らしい光景ですね。昭和5年に品川から横浜まで来ていた1372mm軌間の京浜電気鉄道は、翌6年の末に、こちら湘南電気鉄道が黄金町から日ノ出町(厳密にはここから600m東で日ノ出町の200m手前の「分界点」)まで延長するのに合わせ、横浜から日ノ出町まで1435m軌間の路線を建設して接続し、相互直通運転を開始します。その後、昭和8年4月1日には京浜間の路線も1435mmに改軌して、品川から浦賀までの直通運転が始まりました。
前回の場所の一本東に架かる「末吉橋」の上から、黄金町駅前の「太田橋」方面を振り返っています。この右手一帯の京浜急行の高架周辺と言えば、当時は知る人ぞ知る「ちょんの間」が並ぶ青線地帯で、「日本三大ちょんの間街」の一つ(関東代表:他は大阪と沖縄)という輝かしい(?)称号が授けられていた地域です。また、黒澤明の映画『天国と地獄』の中では「地獄」の象徴とされていました。興味本位で、夕暮れ時に友人のY君とブラブラ歩いたことがありましたが、店先で待ち構える外国(東南アジア系?)の女性から次々に甘い声を掛けられました。そんな風紀の悪さも、21世紀に入ると改善されて「アートの街」として再出発し、時代も一巡。今はだいぶ落ち着いているそうです。
大岡川を更に下って「旭橋」まで来ました。京浜急行の高架線は左へカーブして川から離れ、日ノ出町駅の曲線高架ホームに進入します。そちらから走って来た逗子海岸行き急行の800形は、白帯塗装の6連ですね。昭和53年の年末以来、3両固定の25編成が作られてきた800形ですが、この年の4月からは、新造した3両の中間車を挟んで6連となった編成が登場しています。この後の新造分も含め、最終的には811~827編成の17本が、6両固定編成となりました。写真中央の、ちょうど高架線が直線区間からカーブに変わるあたりが、かつての湘南電気鉄道と京浜電気鉄道との「分界点」にあたるようです。湘南電鉄の方は、このまま右手へ直進して桜木町に至る計画もあったそうです。
京浜急行と別れ、「いせブラ」をしてみました。伊勢佐木町は青江三奈の歌のせいで、どうしても夜と溜息、「あ~ん、あ~ん♪」や「ドゥドゥビ ジュビドゥビ ジュビドゥヴァ~♪」というイメージが強いですが、自分としては、いしだあゆみの『ブルー・ライト・ヨコハマ』のイメージも大切にしたいところです。実際、ここ「イセザキ・モール」をY君と歩きながらビデオで夜景を撮ったことがあり、後から「街の灯りが~ とてもきれいねヨコハマ~♪」とBGMを入れてみたら、なかなか良い感じでした。伊勢佐木町通りを南西から北東へ歩き、商店街の出口(入口と言うべきか?)が見えてきましたが、その先の吉田橋の向こうの根岸線の架道橋を、スカイブルーの国電103系が駆け抜けて行きます。
関内駅に滑り込む根岸線の下り電車は、103系でもウグイス色なので、横浜線からの直通列車ですね。この頃は磯子止まりでした。後には大船まで運転区間が延長され、更には土休日のみ横須賀線の逗子までの直通列車も設定されるようになります。自分は今年の1月以来、この根岸線の沿線(港南台)に住んでいますが、国鉄路線のせいか鉄道趣味的には冷淡で、写真などは全く撮っていません。もっとも、ビデオ(ベータ)では何度か撮影していますが、今や「幻」ですね。瀬谷の田舎暮らしの頃に比べ、横浜市の中心地である、ここ関内や桜木町へは良く来るようになりました。画面中央のセンタービルにも、何かとお世話になったような…え~っと…何だったかは忘れましたが。
前回の根岸線の架道橋の下の道は国道16号。昔はその手前に羽衣橋が架かり、市電も走っていましたが、今回は一つ北西側の吉田橋です。画面中央下に橋が見えますが、その下を行くのは、今は川ではなく「首都高速神奈川1号横羽線」で、この区間は昭和53年に開通しました。今はこんな様子で、さほど変わったようにも見えません。その中で変わってしまった「丸井馬車道ファッション館」のビルの壁面には多くの垂れ幕が見られますが、右の方に「祝 甲子園出場 横浜商」の文字があります。当時の高校野球の神奈川代表と言えば、横浜高校か、この横浜商業高校(Y校)、または東海大相模という印象でした。Y校は、この2日後の決勝戦でPL学園に敗れてしまい、惜しくも準優勝。
自宅から職場まで、以前は(本数の少ない)所要30分程度のバス1本でも行けましたが、根岸線の港南台に引越しても、職場は相変わらず相鉄いずみ野線の緑園都市です。戸塚から(道路が渋滞する)バスでも行けるのですが、電車通勤をしたくて、当面は「港南台~横浜~二俣川~緑園都市」という、大廻りルートを選びました。つまり、この場所は毎日電車で通っているわけです。10年後には左手にランドマークタワーが建ちます。鉄橋を渡ると桜木町駅ですが、この13年前は、同じトラス橋をちょうど反対側から見ていました。根岸線の沿線住民として、スカイブルーの103系にも愛着が湧いてきていますが、あまり乗りたい電車ではありません。向こう側の下り列車は非冷房車ですね。
桜木町まで歩いて来て、東横線の駅に入りました。ホームの先端は極端に狭くなっていますね。島式ホームの両側に7000系が並んでいて、まず渋谷行き各駅停車が出て行きました。左の急行はこの後に発車しますが、途中で先行の普通列車を追い抜きはするものの、停車駅は多く、「隔駅停車」などという不名誉な渾名を付けられています。特急が運転されるのは、まだまだ先のことで、18年後の平成13年まで待たねばなりません。また、この東急の桜木町駅自体は、その3年後の平成16年(2004年)1月30日に営業を終えることになります(廃止は31日)。右手には国電のホームも見えますし、地下には横浜市営地下鉄も走っています。桜木町・横浜間は、3路線が並走していました。
横浜駅に着いて、東口側の…たぶんルミネのビルから西口方向を眺めたのだと思います。高島屋と相鉄ジョイナスの連なったビル(相鉄の横浜駅も取り込んでいます)の手前に、画面の左端に見えるトラス橋で国鉄の線路群を跨いで来た東横線の高架橋が続きます。右手(画面外)にある横浜駅のホームへ向かって走るのは、上りの急行列車8000系。色調が変になったネガのせいもありますが、コンクリート壁の前のコンクリート高架橋を行くステンレスカーとは、こんなにも無機質なものに見えてしまうのですね。やはり、シンボルカラーの帯1本でも良いので、ささやかな「色気」が欲しいところです。さて、今日はこれで帰ります。そして今年の夏休みも、いよいよ最終章へ。
昨年秋の長瀞遠足をはじめとして、この当時、職場の仲良しグループでは時々お食事会や休日のハイキングなどを実施していましたが、この年の夏休みの最後は一泊旅行で、河口湖の奥の「プチペンション こすもす」を訪れました。ところが、この夏の河口湖は大変なことになっていて…でもまぁ、それはまた次回に。往路の記憶が全く無く、みんなで電車で行ったようにも思えますが、他のメンバーは自動車だったか? ともあれ、この日は1枚だけ富士急の写真が撮れました。この大好きな顔は、小田急2200形ですね。小田急時代の晩年の青帯塗装より、いえ、もしかしたら登場時のツートンカラーよりも、この富士急塗装が一番似合っているような…。良い「死に場所」を得たかな?
河口湖畔の天上山へ登るロープウェイに乗りました。素晴らしい眺めですが、良く見ると、何か変です。例えば眼下のボート乗場は陸地から離れた場所にあるように見えますね。実は、手前は駐車場なのですが、その一帯が水の底に沈んでいるのです。本来なら(そして今なら)こんなふうに見えるはずですが、台風5号による豪雨で湖は異常増水し、周囲へ水が溢れ出てしまいました。一部のボートは営業していたので、この後、写真の奥に見えるグランドホテルをボートに乗って近くまで見に行きましたが、1階部分が完全に水に浸かっています。また、夕方にはレンタサイクルを利用し、皆で軽快に自転車で走り回ったのですが、湖岸の道路は途中から水没していました。
昨夜は、野外のコートでバドミントンのナイター試合をしたり、知り合った女性たちと花火をしたりと、プチペンションで楽しく過ごしました(女性からは後にお手紙を頂きました)。翌朝、自分はメンバーと別れて単独行動。富士急の電車の写真を撮りながら帰ることにします。河口湖駅のホームに停まっていたのは、1・2番線とも小田急の2300形でした。昨日この駅で見た元小田急の2200形と共に、昨年(昭和57年)の11月に富士急へ譲渡され、デハ2302-2301/2304-2303が、こちらではモハ5701-5702/5705-5706となっています。左の1番線にいるのが5705の編成、2番線が5701の編成です。(昨日見た編成は、小田急デハ2211-2212 ⇒ 富士急モハ5708-5707 でした。)
構内の留置線を見ると、こちらもまた一目瞭然、元は小田急の1900形ですね。昭和51年に、デハ1911-クハ1961からデハ1914-クハ1964までの2連4本が譲渡され、モハ5231-クハ5261からモハ5235-クハ5265までの4本になりました。末尾の「4」は富士急では忌み番号のため、そこだけ「5」に変更しています。運用開始は昭和52年なので、5200形という形式になりました。小田急1900形は主電動機を4000形に譲っていたため、富士急3600形のものを流用しています。3600形に代わって活躍しますが、昭和57年に、その年由来の5700形が登場すると、選手交代となりました。留置線の左奥へ並ぶ2連3編成は、だいぶ疲れた様子。もう1編成は、後に本線上で出会います。(右端はモハ5708)
2回前にも見た、1番線で待機中のモハ5705-5706。小田急時代はデハ2304-2303でした。小田急の2300形と言えば、ロマンスカー登場前の特急車で、正面は湘南タイプの2枚窓。側面は各座席ごとに幅の狭い窓が15枚ズラッと並ぶ、優等列車専用の車輛でした。後に両開き2扉のセミクロスシート車に改造、ロマンスカーを補う準特急用の車輛となります。続いて、片開き3扉ロングシートの通勤用車に改造。デハ2301-2302-2303-2304の4両編成も、中間車を先頭車に改造の上、デハ2301-2302(方向転換・番号入換)とデハ2303-2304の2連2編成に分割され、正面は2400形と同じ表情の貫通式となりました。側面の幕板の広さと窓幅の狭さに、往年の優等車輛の面影が残っていますね。
河口湖駅構内の南側にはヤードが広がり、6本の留置線が並んでいます。ホームの3線と併せ、これらの線路は皆、駅の西で1本に収束し、昨日見た洗浄機のある引上線に繋がっています。つまり、留置線から出発する場合は、一旦スイッチバックしてホームに入らないと、本線上へは出られません。単純な構造で、一見、分かりやすそうな、けれど不便なような…。左奥は後で見るとして、一番右(南)の留置線には、2回前に見た2連3本の5200形の編成の続きが並んでいます。その中で、画面右端のクハ5265(小田急クハ1964)だけは寒冷対策として屋根上のベンチレーターが撤去されていますが、この編成は翌年1月に廃車となります。(他の5200形の廃車は昭和59年10月)
留置線の奥に置かれたクハ3662。フィルム自体が色褪せていますが、この車体は実際にも、かなり色褪せています。前身は、大正7年に日車で生まれた鉄道省のサハ19形(19015)を昭和15年に譲り受けたもので、富士山麓電気鉄道ではハニ250形(254)となり、昭和26年の鋼体化によってクハニ800形(805)に。その後、昭和37年の更新改造によりクハ3660形(3662)となりました。昭和36年に改造が始まったこのグループはモハ3600形仲間ということで、この制御車はクハ3660形とされています。富士急では昭和の年を車輛の形式に使用する例が多いですね。この様子では既に廃車かもしれませんが、現役中はモハ3632と、セミクロスシート車同士の2両編成を組んでいました。
ホームの全景を見渡すと、1番線にはモハ5706-5705、2番線には5702-5701という、2本の5700形が停まっています。左奥の留置線には、昨日、引上線で見たモハ5708-5707。この時点での小田急2200系列の譲渡車が全て並んでいるわけですが、この先、更に小田急の2320形と2220形が10両来ることになり、最終的に5700形は2連8編成となります。大月・河口湖側が奇数のモハ5701~25、富士吉田側が偶数のモハ5702~26になるのですが、下2桁だけ並べると、03-04、09-10、13-14、19-20、23-24の編成が欠番となります。どうやら富士急では、末尾の「4」「9」という数字を徹底して避けているようですが、モハ3104の大事故もあり、験(げん)を担ぐのも仕方の無いことでしょう。
まず中央は、先日来、何度か見てきた5200形ですね。この時は2連4本の内の3編成が、一番奥の留置線に並んでいました。状態は良さそうに見えますが、同じ小田急から来た5700形に後を託し、翌年の10月には廃車となってしまいます。左端はクハ3660形のセミクロスシート車で、前々回に見たのが3662ですから、こちらは3661です。来歴は同じで、鉄道省のサハ19014の払下げを受けた富士山麓電気鉄道のハニ253が、昭和27年の鋼体化によってクハニ804に改造され、昭和36年の更新で荷物室が撤去されてクハ3661となりました。モハ3631とセミクロス車の編成を組み、翌年1月まで車籍がありました。(セミクロスの3632編成と、ロングシートの3633編成・3635編成は、既に廃車)
モハ5701編成の大月行き上り列車に乗って2駅。富士吉田駅に着きました。スイッチバック式の行き止まり駅なので、このまま逆方向へ出発しますが、ホームの反対側には、下りの河口湖行き5000形が停まっています。昭和50年製で両開き2扉の20mセミクロスシート車。冷房機も搭載した意欲的な新造車で、翌年度「鉄道友の会」の「ローレル賞」も受賞します。しかし、正面のデザインは国鉄風で、3100形の流線形2枚窓の「かっこ良さ」に憧れていた自分としては、少々残念でした。この「富士吉田」駅は、平成23年(2011年)に「富士山」という駅名に改称されますが、何か違和感を覚えます。また「富士急行」という社名は、令和4年(2022年)に旧来の「富士山麓電気鉄道」に戻されました。
スイッチバックで富士吉田駅を発車してすぐ、構内西側にある車庫の横を通った時に、モハ3602の姿が見えました。河口湖駅ではモハ3630形とクハ3660形を見ましたが、こちらはモハ3600形で、両運転台のセミクロスシート車です。前身は富士山麓電気鉄道開業時(昭和4年)のモ1形(モ3→モハ3)で、その機器を流用して昭和27年に誕生したモハ500形(503)を、更に近代化改造して、37年に登場した車輛です。モハ3600形4両の内、3603・3604はロングシート車で、3604は昭和47年に、前年の3100形の事故を機に「4」を忌み番号とした富士急の方針に沿って3605に改番されています。前に訪れた際には、この場だったか、事故車のモハ3103が痛々しい姿を晒していました。
大好きな3100形がやって来たので、熱く語りたいところですが、先に悲しいお話をしておきます。このすぐ右手あたりが昭和46年の大事故の現場で、このモハ3102-3101の弟にあたる3103-3104の編成が脱線転覆し、多くの死傷者が出ました。この写真は右から走って来た下り列車で、18.2‰(パーミル)の勾配を上っているところですが、この先には更に急な40‰区間が待ち受けています。その日、月江寺駅近くの踏切事故によってブレーキが壊れた上り列車は、左から下り勾配を疾走して来て、この先の右カーブで脱線しました。この日、ちょうどこの場所で、1編成だけ残された同じ3100形に出会ったのは複雑な気分ですが、何か不思議な縁も感じます。犠牲者のご冥福をお祈りします。
勾配を上り続けて行く、河口湖行きのモハ3100形(3102-3101)。画面左端ギリギリの所に勾配票が写っていますが、その表記は「40.0」なので、これから更に急勾配に挑むことになります。三つ峠・寿間は、東海道本線の大垣・関ヶ原間の新垂井経由の下り線のように、大きく迂回しながら大カーブの続くM字型の線形となっていますが、それでも尚、この区間内に40‰勾配が2箇所も存在します。そこを力強く上って行く3100形は、自分と同世代の昭和31年生まれ。正面2枚窓の流線形も素敵ですが、幅広い窓が並ぶ優雅なサイドビューも魅力的ですね。また、日本初の狭軌用WN駆動車であり、富士急では初めてとなるMM'ユニット方式を採用するなど、画期的な、素晴らしい車輛です。
三つ峠駅方向へ歩くと、次に来た大月行きの上り列車は、先ほど富士吉田駅で見たモハ5001-5002でした。5000形については先述したので、ここでは与太話を…。この日、寿(ことぶき)駅で電車を降りて線路沿いの小径を歩き始めると、感じの良さそうな女学生と同じ「道行き」になってしまいました。田舎の細道に二人きりなので、オクテ(奥の手じゃありませんよ~)の自分ですが、話し掛けてみると、吉田高校の生徒さんでした。たまたま、野球部がこの夏の甲子園大会に出場していたので、話も弾み…いえ、それだけのことですが…。ちなみに、「寿」駅は元は「暮地(くれち)」という名でしたが、字が「墓地」に似ていた上に事故の影響もあり、昭和56年に縁起の良い駅名に改称されました。