さっしいの鉄道風景 <昭和57年(1982) 12月>      ⇒ ぽこぺん 

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さっしいの鉄道風景 < 2524 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 三島 昭和 57年 12月 8日

まず言い訳から…ですが、フィルムの変色は如何ともし難く、今回も色調の補正を試みてはみたものの、その努力も報われず、結果は「悲惨な戦い」に終わりました(若秩父のマワシが落ちると共に、写真の色も落ちてしまいました)。さて、なぜこの日は三島に?…ということになりましょうが、第2子誕生の報を聞いて名古屋へ駆け付けたのが7日の午後。そして今日も病院に寄って次男と妻の顔を見てから、新幹線「こだま」号に乗って…はい、途中下車してしまいました。転んでもタダでは起きない27歳は、2児の父親、3時のあなた(意味不明?)。それよりも、待機中の伊豆箱根鉄道駿豆線の1000系は、ラッキーなことに、憧れの大目玉電車でした。昭和38年製の第1編成でしょう。



さっしいの鉄道風景 < 2525 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 三島 昭和 57年 12月 8日

左の1000系は、手前から「モハ1002-サハ2001-モハ1001」で、他とは違う「Mc-T-Mc」の編成です。正面の顔付きは西武701系にも似ていますが、製作時期が同じですね。自分としては、こちら1000系の方がセンスは良く思えますし、大目玉の方がバランスも整っているように感じます。いつの間にか隣には、異彩を放つ電車が並んでいました。昭和54年に登場した3000系の内の、この年(57年)に誕生したばかりの第4編成(クハ3504-モハ3008-クモハ3007)です。3000系は、伊豆箱根鉄道初のカルダン駆動やワンハンドルの操作方式を採用し、冷房装置も搭載した意欲的な新形車輛で、この時代以降、駿豆線の主力として活躍することとなります。



さっしいの鉄道風景 < 2526 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 牧之郷? 昭和 57年 12月 8日

この日の行動をはっきり覚えてはいませんが、この写真は、どうやら上り列車の最前部から撮ったもののようですね。三島からは下り列車に乗ったはずですから、まず終点の修善寺までの全線を「完乗」し、上りの三島行きで戻ったのだと思います。駅は「牧之郷」らしく、交換する下りの修善寺行きの1000系は、おでこの大型方向幕など、先ほど見た第1編成よりも更に西武701系に近いスタイルで、第4編成とは違って戸袋窓がありますから、昭和44年製の第3編成(クハ2003-モハ1006-モハ1005)でしょう。車内はロングシートだそうです。色の再現度は…まぁまぁでしょうが、やはり無理やり補正なので、3年前に乗った時の写真もご参照ください。



さっしいの鉄道風景 < 2527 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場(だいば) 昭和 57年 12月 8日

上りの電車に乗って「大場(だいば)」駅の2番線ホームに到着するところですが、下りの1番線には3000系の姿が見えますね。先頭がクハ3504ということは、先ほど三島駅で1000系の隣に並んでいた編成ですね。その時も今も方向幕の表示は「回送」ですから、もしかしたら、この年にできたばかりの同編成にとっては、試運転のような運用だったのかもしれません。ともあれ、日が沈むまでにはまだ少し時間があるので、この駅で降りてみることにします。一生の内で、そう何度も取得することのできない貴重な「配偶者出産休暇」を、今日は有効に使いたいもの…って、目的外使用? さて、極端に色の状態の悪いネガもこの1枚で終わり、次回からは、少しはマシな画像に戻れると思います。



さっしいの鉄道風景 < 2528 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場-三島二日町 昭和 57年 12月 8日

大場駅で降りて線路沿いに北へ少し歩くと、伊豆箱根鉄道の本社前あたりのポイントから左へ分岐する線路があり、この写真の左手前にも少しだけ写っていますが、車庫(大場工場)に繋がっています。留置線が1本だけ並行している本線の方に目をやると、3000系の下り列車がやって来ました。クハ3502-モハ3004-クモハ3003という第2編成です。地方私鉄では良く見られる付番法ですが、電動車・制御車それぞれが製造順の連番となるので、電動車2両に対して制御車1両という組合せの固定編成では、編成内の末尾がズレて行きます。制御車(クハ)の番号末尾は編成番号と一致しますが、電動車は大きい方の数字(この場合は3004)の末尾が、その2倍になっているわけですね。



さっしいの鉄道風景 < 2529 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場工場 昭和 57年 12月 8日

伊豆箱根鉄道駿豆線の車庫(大場工場)を見学させて頂きます。まず目に留まったのは、地方私鉄としては立派な、40t級の凸型の電気機関車です。ED31形の32号ということですが、昭和23年東芝製で、元は西武鉄道の車輛でした。戦後、国分寺線(当時は川越線の一部)の電化に際して31~33号の3両が製作されたものの、32号は逸早く、翌24年に600Vへ降圧の上、駿豆鉄道(後の伊豆箱根鉄道)へ貸出され、その後、33号と前後して正式に譲渡され、ED32・33となりました。昭和34年には駿豆線の昇圧に伴って再び1500V仕様に戻され、47年まで運転されていた貨物列車や、国鉄から直通の客車列車の牽引等に活躍しました。その後も長く、現役として頑張っているようです。



さっしいの鉄道風景 < 2530 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場工場 昭和 57年 12月 8日

既に夕暮れとなり、西向きに撮ったこの写真はモロに逆光ですが、当時の駿豆線の主力車輛が顔を揃えています。右端の1000系は、写真では肝心な側面が良く見えませんが、戸袋窓の無い昭和46年製の第4編成(クハ2004-モハ1008-モハ1007)でしょう。洗浄線にいるのは、先ほどから三島・大場をウロウロしている3000系の第4編成。その隣は…どう見ても西武鉄道の電車ですね。昭和50年から54年にかけて西武501系電車を10両譲受し、伊豆箱根鉄道1000系の第5~7編成(3両3編成)となっていましたが、これは昭和52年に譲渡された第6編成(モハ1012-サハ2007-モハ1011)だと思われます。…ん? 左端に鎮座しているのは?



さっしいの鉄道風景 < 2531 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場工場 昭和 57年 12月 8日

前回の写真の左端に見えていたのは、台車など下回りの無い車体だけが置かれた、いわゆる「ダルマさん」でした。クハ71の廃車体です。伊豆箱根鉄道の20m制御車クハ70形は全車、元は国電(省電)ですが、72~76は西武鉄道を経て転入して来ました。それに対し、このクハ71だけは昭和28年に国鉄から直接譲渡された車輛で、元は2扉クロスシートだったサハ48形(48013)を、独特の窓配置の3扉ロングシートに改造して導入しました。サハ48形は横須賀線用に作られた32系の付随車で、昭和5年度に18両、翌6年度に10両作られています(後に関西用の52系の付随車としても製作)。駿豆線では上り(三島)方の制御車として使用。前面が非貫通となっていた時代もあったようです。



さっしいの鉄道風景 < 2532 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場工場 昭和 57年 12月 8日

先ほど見たED32と同時期に生まれた兄弟分のED33が、傾きかけた冬の西日を体いっぱいに浴びています。もちろん同じ(昭和23年)東京芝浦電気製の、元は西武の機関車で、ED32の後を追うように、こちらは昭和27年に駿豆鉄道へ譲渡されました。降圧・昇圧の経緯もED32と同様です。31~33号として誕生した三兄弟の残りの一人、西武31号電気機関車は、E32に改番の後、昭和32年に遠州鉄道に譲渡されてED21形(212)となりましたが、そちらは運転席の前方中央に、新しく窓が設けられています。中央部が塞がれていては、前方が見にくかったのでしょうか。右奥にいるのは伊豆箱根鉄道のバスですが、一瞬、電車に見えてしまいました。



さっしいの鉄道風景 < 2533 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場工場 昭和 57年 12月 8日

西武501系そのままの、伊豆箱根鉄道1000系の(おそらく)第6編成。ヘッドライトはシールドビームに交換されているようです。ただ、西武501系として活躍していた頃の写真と比べてみると、前面の表情の微妙な違いに気が付きます。手すりと言うのか足掛けと呼ぶのか、その突起がかなり省略されていますね。この差は西武時代からあったかどうか不明ですし、製作時期の新旧によるものか、それとも一部の車輛だけが変更されたのか、そのあたりの事情も把握できていないので、ご存じの方に教えて頂けると有難いです。伊豆箱根鉄道が譲受した3編成のうち、突起が多いタイプは第5編成だけで、それに対し、この「のっぺり」顔は、第6・第7の2編成が該当したようです。



さっしいの鉄道風景 < 2534 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場工場 昭和 57年 12月 8日

さて、この車輛は? 今回一番の謎だったのですが、まず現役なのか、それとも廃車体なのか。下回りは健在のようですが、倉庫として使われている様子もあり…。車体の側面に書かれた車号はクハ(?)「26」もしくは「28」のように見えますが、パンタ台があったようにも窺えます。クハ26なら大雄山線の昔の電車で、見た目は異なり、28も同じく大雄山線で183に改番されていて、これも外観が違います。車体の形態からは、駿豆線に最後まで残った50形のモハ53あたりに見えるのですが、だとしたら、この年の9月に廃車となっていたようですから、その点だけは合うかもしれません。前照灯は取り外され、その下の番号は塗り潰されているので、少なくとも現役の車輛ではなさそうですね。



さっしいの鉄道風景 < 2535 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場-三島二日町 昭和 57年 12月 8日

大場工場に別れを告げ、駿豆線の線路沿いを北へ少し歩いてみました。すぐに田園地帯となって、線路は大きく左へカーブ。左の奥には…う~ん、目を凝らせば、辛うじて、うっすらと富士山が見えますが、本来なら、その秀麗な姿が電車の背景に写り込み、自分にしては珍しく、雄大な自然の風景と共演する典型的な「鉄道写真」が撮れる…はずの場所でした。比較的空気の澄んだ冬の日でも、気温は高めだったのか、どんよりと霞が掛かったようになってしまって残念です。そんな中をこちらへ走って来る下り列車は、国鉄185系の5連。熱海で伊東線に入る本編成と分割し、丹那トンネルを抜けて三島から駿豆線に乗入れて来た、特急「踊り子」号の付属編成ですね。



さっしいの鉄道風景 < 2536 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場-三島二日町 昭和 57年 12月 8日

国鉄のL特急「踊り子」号が走り始めたのは、1年前の昭和56年10月のことでした。写真の日のダイヤは不明ですが、近い時期の資料によれば、東京駅13時30分発の「踊り子15号」があったようです。最盛時には熱海までを在来線の特急で最長の15両編成で走り、分割した伊豆急下田行きの10連を先行させた後、15時ちょうどに発車。三島を15時13分に出て、三島田町は21分、この先の大場は15時26分発となっています。駿豆線内を走る自社の列車は3両編成ですが、こちらは堂々たる国鉄車輛の5両編成、クハ185-サハ185-モハ184-モハ185-クハ185。手前の3両は自由席で、後方の2両が指定席です。自分も、この4年後の年度末には、職員の親睦旅行で利用することになります。



さっしいの鉄道風景 < 2537 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場-三島二日町 昭和 57年 12月 8日

この写真も、目を凝らせば何とか、うっすらと富士山の姿が…。う~ん、悔しいですねぇ。さて、特急「踊り子」号の後を追って来た修善寺行きの下り列車は、西武501系を譲り受けた1000系の3連です。先ほど大場工場で見た編成とは違い、先頭車は前面の手すりの突起が多いタイプなので、第5編成(モハ1009-サハ2005-モハ1010)かと思われます。昭和50年に西武から、クモハ529-サハ1529-サハ1530-クモハ530の4連が、貸し出された後に譲渡され、サハ1530を抜いた3連で使用されています。西武501系は三岐鉄道にも譲渡されていますが、そちらも手すりの多い前面でした。どうやら、こちらが標準タイプで、ノッペリの方が異端車、または改造形だったのか?



さっしいの鉄道風景 < 2538 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場-三島二日町 昭和 57年 12月 8日

三島を目指して走り去る上り列車。3000系ですが、昭和54年製の第1編成です。手前(最後尾)はクハ3501で、先述の法則を当てはめると、その前の中間電動車はモハ3002、最前部の制御電動車がクモハ3001…だということが分かります。3000系は毎年1編成ずつ増備され、4年目に当たるこの年(昭和57年)には、この日何度も見た第4編成が作られました。ここまでの4編成は外観上の違いは殆ど無いようですが、この5年後以降に増備された第5編成と第6編成はステンレスの車体となりました。また、車内はセミクロスシートですが、昭和63年には、一部座席指定の快速列車に使用するため、この写真の中間電動車モハ3002の扉間の座席は、転換クロスシートに改造されます。



さっしいの鉄道風景 < 2539 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場-三島二日町 昭和 57年 12月 8日

今度の下り列車も西武501系を譲り受けた1000系ですが、ラストの第7編成(モハ1014-サハ2008-モハ1013)でしょう。昭和54年1月に西武のクモハ527・528の2両を譲受し、前回(昭和52年)の編成から抜き取られていたサハ1522を加えて、3両編成を組んでいます。先頭のモハ1014の前面は、先ほど大場工場で見た第6編成と同様に手すりが少なく、良く言えばスッキリ、悪く言えばノッペリした表情ですね。こちらの方が、より洗練された顔付きという印象があります。西武501系は総武流山電鉄にも譲渡されて1200形となっていますが、流星号・流馬号・銀河号・若葉号、どれも前面は手すりの多いタイプです。西武501系の譲渡車は、駿豆線の2編成だけがスッキリタイプのようですね。



さっしいの鉄道風景 < 2540 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場-三島二日町 昭和 57年 12月 8日

三島行きの上り列車でしょう。モハ1001-サハ2001-モハ1002という1000系の第1編成ですから、この日最初に三島駅で出会って修善寺まで乗車し、折返して途中の大場まで乗って来た編成のようです。パンタの位置からもMc-T-Mcという編成だと分かりますが、3000系と異なり、1000系では制御電動車でも「クモハ」という形式称号は使用しなかったようですね。9年後の平成3年に両端の2両は大井川鉄道に譲渡され、モハ1002は電装を解いてクハ2001となります。残念なことに平成10年、元・北陸鉄道のアルミ車「しらさぎ」号の6010系と連結した編成で脱線事故を起こし、しばらくは新金谷駅の側線に留置されていましたが、損傷が大きく、再起できずに廃車となりました。



さっしいの鉄道風景 < 2541 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場-三島二日町 昭和 57年 12月 8日

画面中央に富士山の姿が…う~ん、薄っすらと背後霊みたいに写っているのですが…。修善寺行きの下り列車は、クハ3503を先頭とする3000系の第3編成でした。これで今日、4編成全てを見たことになります。さすが最新鋭の車輛たち。大活躍ですね。これまでと違う、前照灯と尾灯の横並び。そして車体にはライオンズブルーを纏った3000系は、「いずっぱこ」の新しい顔となりつつあるようです。尚、行先の駅名も現地の地名も、漢字の表記は「修善寺」ですが、温泉街の中にあって、源頼朝の弟の範頼、続いて息子の頼家が幽閉され、共に後に暗殺されたと伝えられるお寺については、同じ「しゅぜんじ」でも、漢字では「修禅寺」と書きます。



さっしいの鉄道風景 < 2542 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場-三島二日町 昭和 57年 12月 8日

1000系第3編成との2回目の出会い。そろそろ駿豆線ともお別れですが、ここで歴史を、ざっと振り返っておきましょう。三島と修善寺を結ぶこの路線は全て昔の「伊豆国」を走っています。それなのに駿河と伊豆を結ぶが如き「駿豆線」という名称ですね。元はと言えば、明治31年に「豆相鉄道」(「相模国」まで登場?)が現在の三島田町と伊豆長岡間に蒸気鉄道を開業したところから始まります。両方向へ延伸して官鉄の三島駅(現・御殿場線 下土狩)~大仁の路線となった後、「伊豆鉄道」に譲渡。それとは別に明治39年に三島・沼津間に軌道線を開業していた「駿豆電気鉄道」が、45年にその鉄道線を譲受し、それを大正5年に「富士水電」が合併しました。複雑な経緯は、次回へ続きます。



さっしいの鉄道風景 < 2543 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場-三島二日町 昭和 57年 12月 8日

大正5年に創立した「駿豆鉄道」は、翌6年に「富士水電」の鉄道部門を継承。三島(下土狩)・大仁間の蒸気鉄道と、三島町と沼津町を結ぶ電気軌道を経営します。当時の三島駅も沼津の街も旧「駿河国」の領内ですから、この時点で「駿豆」という社名や路線名に不都合は無かったわけですね。大正7年から鉄道線の電化を進め、翌8年に全線電化。大正13年には修善寺までの延長線が開業します。昭和8年、丹那トンネルが開通し、東海道本線の経路変更と三島駅の新線への移設に伴って、駿豆線も新駅に乗入れ、現在の路線が完成します。昭和16年には大雄山鉄道を合併。昭和32年に社名を「伊豆箱根鉄道」に変更し、38年には三島広小路・沼津駅前間の軌道線を廃止しました。



さっしいの鉄道風景 < 2544 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場-三島二日町 昭和 57年 12月 8日

(承前)そういうわけで、大雄山線を仲間にした後は「駿豆鉄道」も「相・豆・駿」の三国に路線を持つ会社となり、戦後に「伊豆箱根鉄道」と改称されましたが、新しい三島駅が置かれた三島宿は「伊豆国」に属し、軌道線(俗称:島津線)の廃止後は「駿河国」の沼津も路線の範囲ではなくなったため、「伊豆国」だけを走る路線となってしまいました。現在の姿を見れば、昔の(鉄道唱歌にも「豆相線路」と歌われた)「豆相鉄道」という名が実現したような形になりましたが、伊豆半島や箱根山中における堤・五島戦争(当社系の西武vs東急)に見るが如く、「伊豆箱根鉄道」という社名通り、伊豆・箱根地方に影響力を持つのでしょう。夕暮れの中、上りの三島行き3000系が大場駅を発車しました。



さっしいの鉄道風景 < 2545 > 伊豆箱根鉄道 駿豆線 大場-三島二日町 昭和 57年 12月 8日

冬の夕暮れは早く、既に日は西の山に沈む頃です。ふと気が付けば、今日は「配偶者出産休暇」を取った日でした。全く関係の無い伊豆の地で、心ゆくまで電車を眺めた午後ですが、自分は一昨日から「2児の父」となった身。…とは言っても、何がどう変わるわけでもありませんが、少しは自覚を持って生きなくちゃ? でもまぁ「鉄道好き」だけは変わりようも無いわけで…。この日の最後の1枚は、最初と同じく1000系の第1編成で、今回はサイドビューとなりました。一番会いたいと思っていたこの電車には乗ることもできたので、第2編成と第4編成が見られなかった無念さは忘れることにしましょう。さて、残り少ない昭和57年ですが、今年一杯は、独り暮らしの気楽さを味わえそうです。



さっしいの鉄道風景 < 2546 > 筑波鉄道 筑波線/国鉄 水戸線 岩瀬 昭和 57年 12月 30日

昨年末は0歳の長男の入院もあって、その前年まで10年間続いていたY君との「年末小旅行」は中止でした。今年はそれを華麗に復活させ、しかも初めて1泊する計画です。まずは国鉄水戸線の岩瀬駅から、富谷観音を訪れました。富谷山(とみやさん)公園の展望台で記念撮影。夕方戻った岩瀬駅ではY君も入れて木造駅舎を撮りました。岩瀬は筑波鉄道の終点でもあり、この日は乗りませんでしたが、キハ811の写真だけは撮っておきました。元は雄別鉄道のキハ104で、仲間のキハ106は関東鉄道常総線のキハ813になっていました。昭和54年に関東鉄道から分離独立した筑波鉄道ですが、経営は苦しそうです。この夜は、当時佐野にあったY君の親戚のお宅に泊めて頂きました。



さっしいの鉄道風景 < 2547 > 国鉄 高崎線 高崎 昭和 57年 12月 31日

茨城県の岩瀬町(現・桜川市)界隈を散策した昨日は、Y君のおばさんの家(栃木県佐野市)に泊めて頂き、大晦日の今日は、群馬県の高崎駅までやって来ました。常磐線から水戸線・両毛線を乗り継いで、東から西へ、北関東を横断したことになります。高崎駅では、島式ホームの両側を上信電鉄と分け合って使用する国鉄の1番線に、特急「白根」という、東海道線の「踊り子」号の塗装とは異なる装いの185系が停まっていました。前面のライトから側面にかけて、緑色の太い帯が巻かれ、元祖「踊り子」の塗装より引き締まって見えます。このホームの左側は上信電鉄用の「0番」ホームですが、11年前の第1回「年末小旅行」の際に見ていました。昨年は中止したので、今年は第11回です。



さっしいの鉄道風景 < 2548 > 上信電鉄 上信線 高崎(上信電鉄車両区) 昭和 57年 12月 31日

高崎へ来ると必ずと言って良いほど毎回訪れている「上信電鉄車両区」。高崎駅の南西側に隣接していますが、今回もまた立ち寄ってみました。最初に目に入ったのは、今やすっかり「上信の顔」となった感のあるデキ1ですが、改めて記すと、大正13年の上信線の改軌・電化の際にドイツのシーメンスシュケルト社から購入した3両の凸型電気機関車(デキ1形)の内の1両です。全長は9mほどで、その無骨なスタイルや飾り気のない塗装など、近年は鉄道ファン以外からも人気があるようです。11年前の初めての出会いは雨の夜ではっきり見えず、2年前の夏も遠目に見ただけでしたが、今回は間近で見ることができました。その3回とも「非鉄」のY君が同行していたというのも不思議です。



さっしいの鉄道風景 < 2549 > 上信電鉄 上信線 高崎(上信電鉄車両区) 昭和 57年 12月 31日

おや? これは西武の車輛ですね。2年前には見掛けませんでしたが、昭和55年から56年にかけて、451系のクモハ451形ばかりを6両譲受。奇数車をクモハ100形、偶数車は電装解除してクハ100形とした、2連3編成を導入しました。これはクモハ103-クハ103の編成のようです。運転席に吊るされた提灯が微笑ましいですが、初詣列車にでも使用する予定でしょうか。2年前の夏も、これと似たアングルで写真を撮っていましたが、その時は斬新なデザインの1000形に感動し、今回は、この100形…だけでなく、新しいスタイルで次々に登場した新形車輛にも驚きました。この時代の上信電鉄は、車輛の体質改善を積極的に進めていたという印象が強いです。



さっしいの鉄道風景 < 2550 > 上信電鉄 上信線 高崎(上信電鉄車両区) 昭和 57年 12月 31日

100形の奥にも新形車輛の姿がありましたが、6000形ですね。その詳細は次回ということにして、それとは別に、奥の方にも見慣れない顔の電車が見えます。そちらは250形ですが、思いも寄らない外観の車輛が次々に登場していた時代で、なかなか現況を把握できずにいます。奥には手前の電車と同じ100形も見えますが、クモハ-クハの3編成の内、102編成は後に(昭和59年)衝突事故を起こしてしまいます。代わりに譲受した105編成(104は忌み番で?欠番)のクハ105だけは、当時既に西武451系が無くなっていたためにクハ1662が充当され、正面2枚窓の601系の顔だったそうですが、次に上信電鉄を訪れた時(14年後の平成8年)には、その姿を見ることができませんでした。



さっしいの鉄道風景 < 2551 > 上信電鉄 上信線 高崎(上信電鉄車両区) 昭和 57年 12月 31日

さて6000形。前回の訪問時には1000形の斬新な姿に衝撃を受けましたが、今回はこの6000形の、やはり未来志向のスタイルに驚かされました。特に前照灯と尾灯の横並び配置が1000形とは異なり、より洗練された印象を受けます。中空軸平行カルダン駆動という走行方式は1000形と同じですが、こちら6000形は、上信電鉄初のセミクロスシートを採用。また、初めての冷房車でもあります。昭和51年の1000形に続き、56年に登場した6000形と250形。群馬県からの補助なども利用して、車輛の体質改善を積極的に図っている印象を受けます。しかし、前回100形について記したように、6000形はこの2年後に、100形との正面衝突事故を起こしてしまいます。(クモハ102-クハ102は廃車へ。)



さっしいの鉄道風景 < 2552 > 上信電鉄 上信線 高崎(上信電鉄車両区) 昭和 57年 12月 31日

やっと見ることができました。「これぞ上信」とでも言える200形。ここまでは新顔の車輛ばかり目に入ってきましたが、この姿に接すると、やはりホッとします。塗装も昔ながらの「コーラルレッドに紺色の帯」という、これはこれで個性的と言うべきか、暑苦しさも感じさせる特徴的な配色ですが、「上信らしさ」であることは確かでしょう。前面が低運転台で側面窓は1段上昇式なので、これは1次車。どうやらデハ203らしく、その後ろに1次車の2連(デハ201-クハ301またはデハ202-クハ302)が続く、3両編成のようです。200系の1次車は、昭和39年に、デハが3両、クハが2両作られました。デハが1両多かったのは、こうして下仁田側に増結して3連を組成するためです。



さっしいの鉄道風景 < 2553 > 上信電鉄 上信線 高崎(上信電鉄車両区) 昭和 57年 12月 31日

この箱形の電気機関車も、ここへ来れば毎回目にしているED31形(316)ですが、その都度、車体の色が変わっています。11年前に初めて見た時はマルーン1色でしたが、2年前の夏は青に白帯という装いに変身していました。そして今回は、200形など旧来の電車と同じコーラルレッド…でしょうか。白帯の巻き方は、前回の「青の時代」と変わりないようです。元は大正12年生まれの伊那電気鉄道デキ1形(6)という凸型の電気機関車でした。秩父セメントのマークが目立つ貨車は国鉄のホッパ車ホキ5700形で、「武州原谷駅常備」と記されています。武州原谷(はらや)は、秩父鉄道の大野原駅に近い、秩父セメント第二工場(現・秩父太平洋セメント秩父工場)に隣接する貨物駅ですね。



さっしいの鉄道風景 < 2554 > 上信電鉄 上信線 高崎(上信電鉄車両区) 昭和 57年 12月 31日

車庫の片隅に追いやられた感はありますが、昔ながらのデハ20形の一員デハ23の姿も、まだ見ることができました。少し前の上信電鉄では、旧形車のデハ10形・クハニ10形・デハ20形・クハニ20形・デハニ30形なども活躍していましたが、さすがにこの当時は数を減らし、デハ22・23とデハニ31の3両だけが残っていたようです。このデハ23はその中の1両ですが、塗装の一部に傷みは見られるものの、車体そのものは健在のようで、実際、他の2両と共に車籍は平成の世まで残っていました。旧形車は車体裾の切欠きが個々に異なり、様々な形状になっていましたが、このデハ23は車体側面の中央部にだけ切欠きがありました。この8年後、平成3年2月14日付で廃車となります。



さっしいの鉄道風景 < 2555 > 上信電鉄 上信線 高崎(上信電鉄車両区) 昭和 57年 12月 31日

6000形の側面が見渡せる場所に来ました。良く見ると、側面の窓配置が独特だったことに気付きます。中間のドアを挟んで、その左右が全く異なっていますね。どちらもユニット窓ですが、右側は普通に3枚並び、左には2連の窓が2組設けられています。これは車内の変則的な座席配置によるもので、クロスシートとロングシートが「千鳥配置」となっていますが、この23年後の平成17年にロングシートに改造されてしまいます。また、5年先輩の1000形が3両固定編成で登場したのに対し、6000形は2連(クモハ6001-クモハ6002)でデビューしました。1000形の3連は使い勝手が悪かったのか、後に(平成13年)2連と1両(クモハ1001-クモハ1201と増結用のクハ1301)に改造されます。



さっしいの鉄道風景 < 2556 > 上信電鉄 上信線 高崎(上信電鉄車両区) 昭和 57年 12月 31日

こちらもまた新形式の250形。6000形と同時に2両作られた内のデハ251です。<2551>などの写真ではデハ252の前面が見えていましたが、うっかり撮り落としました。その代わりというわけではありませんが、側面では記念撮影をさせてもらいました。1000形や6000形の電動車がMM'のユニット方式であるのに対し、この250形は1両でも走行できます。1000形の3両固定編成は長過ぎたらしく、20m車でも単行で走れるようにした両運車が、この250形です。デハ200形と2連を組んだり、3連を作る増結用として活躍しているそうです。奥に並ぶデハ205-クハ304は200系の2次車で、デハ204-クハ303と共に、前面は高運転台で側面窓は2段式になるなど、1次車とは外観が異なっていました。



さっしいの鉄道風景 < 2557 > 上信電鉄 上信線 高崎(上信電鉄車両区) 昭和 57年 12月 31日

この年最後の1枚は、3両残った20形・30形の内の、デハニ31でした。こちら下仁田側は前面非貫通ですが、向こう側には貫通扉があるはずです。11年前に見た時も既に運転席の窓はHゴム化されていて、その後の大きな変化は無さそうですが、先ほど見たデハ23と同じく平成3年に廃車となるので、これが見納めとなりました。さて、この後は八高線に乗り、小川町へ移動したのですが、「女郎鰻」か「忠七めし」でも…という期待も空しく、大晦日のせいか、どの店も休業。辛うじて営業中のスーパーに残っていた食パンと魚肉ソーセージを、Y君と二人、八高線のホームのベンチで齧ったという、なんとも情けない「今年最後の昼食」となってしまいました。 【昭和57年・終】



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