さっしいの鉄道風景 <昭和57年(1982) 11-12月>      ⇒ ぽこぺん 

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さっしいの鉄道風景 < 2488 > 秩父鉄道 長瀞 昭和 57年 11月 7日

一人暮らしが始まっています。自由に羽を伸ばせるから…というわけでもありませんが、この当時、仕事の後で食事を楽しんだり、休日にはハイキングに出掛けたりと、職場の仲良しグループで遊びに行く機会が多くなっていました。この日は、かなり遠くの長瀞を訪れようということになり、僕が計画を立てましたが、当日は生憎の雨。池袋から東武東上線の直通特急で延々2時間あまり、それも愛想の無い8000系ですから、行楽気分はイマイチですね。でも、お子さん連れの先生も参加して、それなりに楽しく過ごせました。長瀞駅に着くと、側線には800系が留置されていました。落ち着いた配色は、小田急1800形だった頃の「白に青帯」という塗装よりも似合っているように思えます。



さっしいの鉄道風景 < 2489 > 宝登興業(普通索道) 宝登山麓-山頂 昭和 57年 11月 7日

行楽の季節の日曜日なのに、侘しい初冬の雨に祟られ、長瀞の船下りは中止。それでは宝登山(ほどさん)に登ろうと、駅前から観光用の馬車でトコトコと、歩くよりも遅く移動します。広義の「鉄道」の一種とされる「普通索道」、つまり「ロープウェイ」に乗って山頂を目指しますが、ご覧のように山全体が霧雨に包まれ、周囲は何も見えませんでした。荒川では長瀞ライン下りの代わりに、淀んだ水辺をチマチマと足漕ぎボートで遊びましたが、それも、なかなか楽しいものです。そういうわけで、遠出した割には、何かパッとしない小旅行でしたが、こんなお気楽な日々も、また良き哉。もうすぐ二児の父になるという自覚などは、どこにも無さそうな、26歳最後のひとときです。



さっしいの鉄道風景 < 2490 > 京浜急行電鉄 本線 京浜川崎 昭和 57年 11月 28日

気ままな一人暮らし。27歳の誕生日は自分だけで寂しく祝い、その1週間後の日曜日は電車の撮影に出掛けました。今回は都営地下鉄1号線(浅草線)関連の車輛が目的だったのか、まずは「京浜川崎」で都営5200形を撮りましたが、この電車は先月、金沢検車区の横でも見ています。その時は詳述しませんでしたが、都営1号線用の5000形車輛の増備車として、昭和51年に6両編成2本が製造されました。従来の5000形とは違い、車体はセミステンレス製になりましたが、走行装置は従来通りなので、正式には5000形の6次車(5200番台)という扱いで、この当時「5200形」は通称でした。引上線から出てホームに入線する5200形とすれ違い、品川へ向かう上りの普通列車は700形ですね。



さっしいの鉄道風景 < 2491 > 京浜急行電鉄 本線 京浜川崎 昭和 57年 11月 28日

「京浜川崎」駅の6番線に、引上線から出て来た都営5200形が入線しました。当駅始発の急行・京成小岩行きとして、発車を待っています。昭和51年生まれの5200形は、46年に登場した新宿線用の10-000形の試作車と似た顔付きですが、高運転台を採用したので窓の上下幅が縮まり、特に中央の貫通路窓などは少々苦しい表情のように感じられます。6連2本でデビューした(通称)5200形ですが、この後、平成8年に8連1本に組み替えられ、平成12年には形式も(正式に)5200形に改められます。5番線から発車する下り快特・三崎口行きの1000形も、今となっては懐かしい光景ですね。「京浜川崎」という駅名が「京急川崎」に改称されるのは、昭和62年6月1日のことになります。



さっしいの鉄道風景 < 2492 > 京浜急行電鉄 本線 京浜川崎-六郷土手 昭和 57年 11月 28日

この日は、多摩川(この付近では「六郷川」)の鉄橋を渡る電車を撮影したかったのでしょう。まず川崎側の堤防から京浜急行の1000形を狙いましたが、トラス橋の中を行く車輛を撮るのは難しいですね。正面の顔が隠れないよう鉄骨の間から垣間見える一瞬のタイミングを狙うのは至難の業です。この場合は赤い車体が目立つので、列車の存在感自体はありますが、これがステンレスカーだと見極め難くなりそうです。「デハ1000形」は、昭和34年の末にデビュー。後に33年製の800形も改番して編入し、いつの間にか356両という大所帯になりました。先ほど京浜川崎駅で見たように快特にも使われていますが、この4連は各駅停車でしょう。冷房機も搭載していない編成ですね。



さっしいの鉄道風景 < 2493 > 京浜急行電鉄 本線 京浜川崎-六郷土手 昭和 57年 11月 28日

もう少し鉄橋に近付いて、今度は都営5000形を迎えました。当時の都営浅草線から京浜急行への直通運転は、特急の三崎口(三浦海岸・京浜久里浜)行きと、この京浜川崎行きの急行が基本です。京成側へは、特急は青砥、急行は東中山まで乗入れていた時期もありますが、この頃は京成小岩行きが基本だったようです。それとは別に、京浜川崎以南には京浜急行の路線内で完結する逗子海岸までの急行が設定され、川崎大師の達磨さんを髣髴させる800形を中心に運行されていますが、両者を通して、京成から地下鉄を通って逗子海岸まで運転する列車もありました。それはまた別に紹介します。京成の赤電の色に似た塗装ですが、少し古臭い感じもしてきました。



さっしいの鉄道風景 < 2494 > 京浜急行電鉄 大師線 京浜川崎-港町 昭和 57年 11月 28日

第一京浜国道の六郷橋の南詰まで歩くと、京浜川崎から東へ延びる大師線の線路に出会います。戦前は「六郷橋」駅があり、戦時中に休止となって戦後正式に廃止されましたが、そこが、かつての大師電気鉄道の「川崎」停留場であり、京浜急行の路線で最初(明治32年)に開業した区間「川崎~大師」の起点となった場所でした。写真は少し東へ行った地点で、今はこういう風景になっています。左手の工場は集合住宅になったようですね。小島新田行きの700形が左へカーブした先に「港町」駅があり、その先は「川崎大師」駅まで味の素の工場内の線路を直進しますが、開業時から昭和3年までは、右へ大きく迂回する「大師道」を走る路面電車でした。



さっしいの鉄道風景 < 2495 > 京浜急行電鉄 本線 京浜川崎-六郷土手 昭和 57年 11月 28日

第一京浜(国道15号)の六郷橋を歩いて渡りながら、時々、京浜急行の多摩川鉄橋に目を向けます。颯爽と駆け抜けて行くのは600形の8連ですから、快速特急でしょう。この当時はまだ正式には「快速特急」でしたが、略称の「快特」も普及していて(この前年に設定された新しい列車種別名は当初から「通勤快特」です)、この17年後の平成11年には「快特」が正式名称となります。略称に慣れていたせいで気付きませんでしたが、正式には意外と長く、最初の名称を保っていたのですね。山口百恵ちゃんの『I CAME FROM 横須賀』(昭和52年発売のアルバム『百恵白書』収録曲)の歌詞は、「快速特急 音をたてる~♪」でした。(歌詞には「金沢文庫」も出てきて嬉しいです。)



さっしいの鉄道風景 < 2496 > 京浜急行電鉄 本線 京浜川崎-六郷土手 昭和 57年 11月 28日

同じ多摩川(六郷川)でも、川崎方(神奈川県側)ではすぐに川の流れを跨ぎましたが、こちら東京都側には河川敷が広がり、長閑な風景が見られます。鉄橋を行く下り列車は都営5000形ですが…おや? 6連の内、左の2両は塗装が異なりますね。そうです、思い出しました。たぶんこの日は、この新塗装を撮るのが主な目的だったのだと思います。これまでは、昭和35年の登場以来、クリームとオレンジのツートンカラーで上下に塗分けられていましたが、昨年から新しく、クリームに赤帯という装いが登場し、今後は徐々に変更されて行きそうな気配です。一見したところ、新塗装は明るい印象ですが、赤帯の幅が…う~ん、ちょっと微妙かな…と。



さっしいの鉄道風景 < 2497 > 京浜急行電鉄 本線 六郷土手 昭和 57年 11月 28日

多摩川を東京都側へ渡り、川に隣接した「六郷土手」駅に着きました。下りホームの北端で列車を待つと、折良く600形の快速特急がやって来ます。しかも先頭車はデハ601。これはラッキーですね。これまでにも600形は何度か撮っていますが、ファーストナンバーは無かったような…。間もなく(この翌月には)新形式の2000形が誕生し、快速特急の世代交代が始まります。1年半後の増備車登場以後は600形の廃車も出るようになりますから、この時代は、いよいよ最後の活躍と言っても良いでしょう。ちなみに、このデハ601は、廃車後も逗子市の運動公園に展示されていますが(令和7年の写真)、保存会の継続的な活動によって美しく整備され、車内も公開されています。



さっしいの鉄道風景 < 2498 > 京浜急行電鉄 本線 六郷土手 昭和 57年 11月 28日

今度の下り列車は、またまた東京都交通局の5000形。先ほど鉄橋上を行くのを見たのと同じ、京浜川崎行きの急行列車です。20分サイクルでしょうか。この「旧塗装」は、近い将来無くなってしまいそうなので、今日は意図的にそれを狙って撮っているようです。クリームとオレンジの間に銀の帯が挟まれていますが、初冬の明るい光が当たり、かなり飛んでしまいました。この季節は一年の内で最も心地の良い頃かもしれません。陰暦の神無月(10月)、つまり現在の暦で11月から12月となる、この時期の良く晴れた日こそが、本来の意味での「小春日和」です。左手のビルは令和の今も変わらない様子ですが、右奥の「六郷バッティングセンター」は集合住宅になったようです。



さっしいの鉄道風景 < 2499 > 京浜急行電鉄 本線 六郷土手 昭和 57年 11月 28日

2番線を通過する京成小岩行きの上り急行電車も、都営の5000形でした。後方の2両が新塗装なので、先ほど多摩川鉄橋を渡って行った下り列車が京浜川崎で折返して来た編成ですね。こちら側の前面は逆光で暗くなっているため、銀色の帯もはっきり見えますね。デハ5056を先頭とする5056-5055-5054-5053の編成は、昭和38年1月製の3次車。前年までの2両編成の1~2次車と違い、当初から4両固定編成です。翌年10月の大門延長に向けて増備されました。大河を渡る鉄橋に接した対向式ホームの急行通過駅…と言えば、東武の小菅を思い起こしますが、あちらは複々線化によって変貌してしまいました。京成の江戸川や国府台あたりなら、ここ六郷土手と似た雰囲気でしょうか。



さっしいの鉄道風景 < 2500 > 京浜急行電鉄 本線 六郷土手 昭和 57年 11月 28日

六郷土手駅を通過して行く6両編成の5000形の内、後部2両が新塗装でした。クリーム色は少し明る過ぎるように思います。赤帯の幅は京浜急行や京王よりもずっと太く、小田急に似た感じではありますが、何か今一つ、垢抜けないような…。5013-5014の2両編成は昭和35年11月生まれで、同年12月4日に控えた都営地下鉄1号線(押上・浅草橋間)の初開業に備えて用意された1次車です。あれから22年。既に、この日の最初に見たステンレス製の5200形も登場していますし、初期の車輛は老朽化が進みました。そのため、昨年から車体を更新し、同時に新塗装への変更を進めているところです。近い将来、5000形は全て塗替えられてしまうのでしょう。



さっしいの鉄道風景 < 2501 > 京浜急行電鉄 本線 京浜川崎 昭和 57年 11月 28日

六郷土手から、今度は電車に乗って多摩川を渡り、京浜川崎へ戻って来ました。この日の初めと同じく、再び6・7番線のホームから北方の引上線を望みます。先ほど5200形が出て来た場所に、今は5000形が停まっています。これから急行の京成小岩行きとなって折返すのでしょう。この動きが20分ごとに繰り返されているわけですが、そのためには、上り方の引上線というのは効率が悪そうですね。さて、この後は、都営地下鉄・京成直通のこの5000形急行に乗って行こうと思います。ただし、急行運転するのは京浜急行線内だけ、つまり品川までで、その先は各駅停車となります。下りの1000形は各駅停車の浦賀行き。先ほど鉄橋を渡っていた編成と違い、こちらは冷房車ですね。



さっしいの鉄道風景 < 2502 > 京成電鉄 本線 京成高砂 昭和 57年 11月 28日

京浜川崎から品川、泉岳寺、そして都営浅草線で東京の地下を縦断し、押上から京成に入って地上に出て、青砥を過ぎて京成高砂に着きました。当時は青砥駅の高架化と高砂までの複々線化工事の真っ最中で、青砥駅では押上線の下り線のみ高架化されていた頃です。本線の下り線も高架化されるのは半年ほど先で、上り線も高架化されて青砥駅のホームが高架2層構造となるのは2年後のこと。…とは言え、ここ京成高砂駅は特に大きな変化も生じないようです。それよりも京成の電車は皆、新塗装に変わっていました。この年の2月に日暮里駅で初めて出会いましたが、そう悪くない色だとは思うものの、やはり以前の赤電塗装が消えたのは寂しいです。



さっしいの鉄道風景 < 2503 > 京成電鉄 本線 京成高砂 昭和 57年 11月 28日

下りホームを望むと、島式ホーム両側の3・4番に電車が停まっていますが、どちらも普通列車のようです。こういう2面4線の構造の駅は大好きで、先行の普通列車が待避し、優等列車がそれを追い抜いて行くという(ごく普通の)光景を見るたびにワクワクしますが、双方とも各駅停車というのは珍しいですね。ここが分岐駅であり、奥の4番線の3500形は京成金町行きなので、追い抜きではなく、他線への接続の都合でしょう。京成千葉行きの2100形も新塗装ですが、元は赤電ではないので、アイボリーの帯にはステンレスの縁取りがありません。これはこれでスッキリしていますが、それよりもこの形式には、元の青電塗装の方が似合っていたな…と思います。



さっしいの鉄道風景 < 2504 > 京成電鉄 本線 京成高砂 昭和 57年 11月 28日

お、来ました、来ました。これです。都営5000形の逗子海岸行き。「普通」と表示されていますが、たしかに京成線内と都営浅草線内は各駅に停車します。泉岳寺から京浜急行線に入って急行列車となり、今日何度も見たように大抵は京浜川崎止まりなのですが、たまに逗子まで直通する列車があったようです。どのくらいの頻度だったのでしょうか。当時はまだ京浜急行の沿線住民になってはいないので、普段あまり馴染みはありませんでした。また将来は、京浜蒲田駅や空港線の大改良を経て、急行列車は羽田空港系統を基本にするという方針に変わります。3番線の3050形は、以前と比べ、前照灯は2灯化、窓は小型化。運行窓は埋められ、アンチクライマーは大型になりましたね。



さっしいの鉄道風景 < 2505 > 京成電鉄 本線 京成高砂 昭和 57年 11月 28日

上り西馬込行きの急行は3200形。改めて述べると、昭和39年から42年までの3年間に亘って、計88両が製作された形式です。それ以前の3150形と比べ、側面の客用ドアが両開きとなったのが大きな特徴でした。そのため窓配置も、いわゆる「関東私鉄タイプ」とは異なるものになっています。次世代の3300形の途中からは前面上部に方向幕が装備されますが、3200形にはありません。12年前に撮った写真と比べてみても、今のところ、大きな変化は無さそうです。ところが、この先の昭和60年以降、車体更新と冷房化改造が実施されます。ヘッドライトは左右の腰部に下ろされて、大型の尾灯と並べられ、おでこには方向幕が設置されて、表情は大きく変わってしまいます。



さっしいの鉄道風景 < 2506 > 京成電鉄 本線 京成高砂 昭和 57年 11月 28日

今度は、上りも下りも3500形ですね。前回まで、同じ顔付きの赤い電車ばかり続いたので、少し前の遠鉄シリーズの再来のような感じになっていましたが、ここで一息つけました。…とは言え、この先も同じ駅で同じ京成ばかりが、まだしばらく続きますが…。3500形は、初めて見た頃から悪口ばかり言っていたと思いますが、やはり、このステンレスの切妻の表情は…。う~ん、食パンにしてもイマイチで、横幅が広く見える感じはカッコ良く思えません。デザインとしては都営地下鉄5200形の方がまだマシかな…などと、特に車輛のスタイルだけを見ている鉄道ファン(自分)は、勝手なことばかり言ってますね。考えてみれば、走行装置の性能や機構などは、あまり気にしたことがありません。



さっしいの鉄道風景 < 2507 > 京成電鉄 本線 京成高砂 昭和 57年 11月 28日

京成の電車、特に3000系列の写真は、これまで何枚も撮ってきましたが、こうして同じ場所で個々の形式を大きめの写真で見比べることができると、その表情の微妙な違いが分かりやすくなりますね。3150形は、昭和38年に4両固定編成44両が生まれています。赤電では初となる中間電動車も登場しました。昭和44~45年には一部の車輛の正面と側面に方向幕が設けられましたが、<2502>で見た3154や、この3170も、その仲間です。また、この翌年、3170の編成は京成における冷房改造の先駆けとなります。同時に車体も更新改造され、前々回に述べた3200形の改造と同じく、ヘッドライトが腰部の左右に移るなど、表情も大きく変化することになります。



さっしいの鉄道風景 < 2508 > 京成電鉄 本線 京成高砂 昭和 57年 11月 28日

今回は3000形です。「赤電」の若番で、さすがに古びた顔付きをしていますが、そこが魅力でもあります。昭和33年の登場時は、まだ「青電」の塗装で、軌間は1372mm。おでこの真ん中に砲弾型のヘッドライトを1個備えていました。2連7編成の計14両作られましたが、翌年には前照灯を小型シールドビームに替えた1435㎜ゲージの3050形が、新しい赤電塗装で登場。3000形も改軌と共に、順次塗り替えられます。その後は4連化され、車体は<2504>で見た3050形と同様の改造を受けて、この姿になりましたが、3050形以降の赤電仲間とは異なり、この後も冷房化されることはありません。3050形の非冷房車を交えた6連4編成となった後、最後は8連2編成に組み替えられています。



さっしいの鉄道風景 < 2509 > 京成電鉄 本線 京成高砂 昭和 57年 11月 28日

うん、やっぱり、この電車が来ないと…ね。スカイライナーと言えば、この10年来、京成の看板列車ですが、住宅密集地でカーブと分岐の続くこのあたりでは大したスピードも出せず、残念なところです。成田の街や空港へのアプローチにしても、わざわざ千葉を通る国鉄よりは距離的な条件が勝るものの、用も無い船橋や津田沼を経由せねばならず、後年のスカイアクセスに比べ、無駄な遠回り感は拭えません。それでも一私鉄の身としては、良く健闘していると思います。この塗装は大変気に入っていますが、翌年からは塗り替えられてしまいます。新塗装は、赤と青とが同居する、暑苦しいというか、気色悪いというか、自分としては「許せない」配色になりました。



さっしいの鉄道風景 < 2510 > 京成電鉄 本線 京成高砂 昭和 57年 11月 28日

京成高砂駅のホーム東端へ移動して、東へ延びる本線を眺めます。2面4線のホームから続く線路は、ダブルクロスの両渡りポイントが並列する、これもまた「線路ファン」にとっては堪らない光景です。ここから左へ金町線が分岐し、右へ行く本線との間に広がる高砂検車区へ繋がる車庫線を擁し、複雑な線路配置になっています。同じ京成本線の京成津田沼駅に勝るとも劣らない、カオスなジャンクションです。将来は(平成3年)更に、ここに北総線の線路も加わるので、この京成高砂駅が手狭である感は否めませんね。実際、金町線は平成22年に、本線と分離する形で高架のホームへ移設されます。やって来た西馬込行きの急行は3500形。奥の下り急行は3150形でしょうか。



さっしいの鉄道風景 < 2511 > 京成電鉄 本線 京成高砂 昭和 57年 11月 28日

同じ京成高砂駅でもアングルを変えて、ホームの東端から上り方向を見ています。今回ここでは初めて見る京浜急行1000形が入線しています。地下鉄直通でここまで来て、折返して三崎口行きになった場面でしょう。列車種別表示は「普通」ですが、これも都営5000形の急行同様、泉岳寺以遠の京急の区間では「特急」になるはずです。この列車は、以前は一駅手前の青砥で折返していましたが、この当時は高架複々線化工事の影響で青砥駅の引上線が使用できなくなり、ここ高砂で折返していたそうです。下りの3200形は各駅停車の京成千葉行き。千葉線はまだ本線系からの直通が多かった時代ですね。後には新京成線(更に後の京成松戸線)との直通運転が主となります。



さっしいの鉄道風景 < 2512 > 京成電鉄 本線 京成高砂 昭和 57年 11月 28日

再び京成高砂駅ホームの西の端へ来て、下り列車を眺めます。これはまた、形式ごとの車体の違いが分かりやすい並びですね。3番線の京成千葉行き普通列車は3200形。4番線の京成佐倉行きの急行は3050形。正面はヘッドライトの違いくらいしか差は無いようですが、側面は全く異なりますね。3200形の両開きドアの戸袋窓が無いのは良いと思いますが、やはり自分としては、同じ幅の窓や片開きドアが並ぶ3050形の方が好きです。京浜急行の1000形や京王5000系なども同様ですね。ふと気付きましたが、急行は外側の4番線で追抜きをしているんですね。高砂駅の線形によるものでしょうか。でも、先ほどのスカイライナーは、3番線通過…でしたよね。



さっしいの鉄道風景 < 2513 > 京成電鉄 本線 京成高砂 昭和 57年 11月 28日

ここまで長々と、京成高砂の赤い電車という、同じような内容の写真ばかり続きましたが、こ~れ~が最後の~♪ …1枚です(わっかるっかなぁ~?)。これも、下り普通の千葉行き3200形と、上り急行の西馬込行き3300形と、おでこの方向幕の有無が好対照ですね。それ以外には特に両車の差異は無いのでしょうか…と思ったところ、3300形の正面窓上には、小さなステップ(?)があるようですね。今まで見ていても気付きませんでした。さて、この日はこれで帰宅します。名古屋の実家にいる妻は、出産予定日が近付いています。同時に、年明けに引越すつもりの転居先もほぼ決まり、その契約手続きも進めなくては…。この12月から翌年1月にかけては、とても忙しい季節となりそうです。



さっしいの鉄道風景 < 2514 > 国鉄 中央本線 信濃町 昭和 57年 12月 2日

この日は新宿の住宅公団(この当時は「住宅・都市整備公団」でしょうか、後の「都市基盤整備公団」、更に後は「都市再生機構(UR)」)を訪れ、購入予定の中古公団住宅の契約や、ローンの手続きなどをしたように思います。昼食後の帰途、「電車撮り」に行ったのでしょう。まず信濃町駅のホームの東端で、中央・総武緩行線の国電を撮りました。幼い頃から見慣れ過ぎた電車で、むしろ写真を撮る機会は少なかった被写体ですが、カナリヤイエローの101系は健在のようです。ただ、試作の冷房改造車が(中央線快速用に)登場してから、早10年。その後、101系の冷房車は、増える気配がありません。緩行線でも、むしろ途中から投入された103系の方に冷房車が見られました。



さっしいの鉄道風景 < 2515 > 国鉄 中央本線 信濃町 昭和 57年 12月 2日

201系を初めて撮ったのは、10か月前の東京駅でしたが、ブラックフェイスの電車がカーブを切り、カントで傾きながら走って来る姿は、なかなか力強くてカッコいいと思います。101系や103系の(人によっては「四角い棺桶」などと悪口を言った)スタイルも、自分はそれなりに好きですが、この201系の正面の黒は、引き締まって見えて好感が持てます。試作車のデビュー当時、我が「笹急鉄道」の模型部にも逸早く導入され、快走していました(写真は独身生活時代の横浜・反町「松ヶ丘線」)。量産車は最前部の戸袋窓が無く、運行表示窓は黒色に、ヘッドマーク掛けは大型化されています。201系の増備により、中央快速用の103系は、黄色に塗られて総武緩行線へ転出することとなりました。



さっしいの鉄道風景 < 2516 > 国鉄 中央本線 信濃町 昭和 57年 12月 2日

未来志向スタイルの201系が中央快速線を闊歩する中、旧来の非冷房の101系も、まだまだ健気に頑張っています。やはり101系には、このオレンジバーミリオンのカラーが最も似合いますし、自分としても一番好きです。中1の正月にお年玉をかき集め、「きよみずダイブ」で購入したHOゲージの鉄道模型も、当時はこの色の実車が存在しない103系でしたが、迷わず中央線の色にしました。(実在しない「フリー」の模型だと、鉄友からは揶揄されたものでしたが…。)ところで、この写真は信濃町駅のホーム東端から撮ったと思いますが、今、同じ光景を見ることはできないようです。平成になってから下り線の南側の臨時ホームが撤去されたのに伴い、ホーム全体が西へ移動したと思われます。



さっしいの鉄道風景 < 2517 > 国鉄 中央本線 千駄ヶ谷 昭和 57年 12月 2日

黄色い電車に乗って西へ一駅移動し、千駄ヶ谷駅のホーム東端に来ました。入れ違いに東方へ走り去って行くのは、総武線の津田沼へ直通する中央線緩行101系電車。もっとも、線路の戸籍とは異なり、この電車を「中央線」と思ったことは幼い頃から一度も無く、黄色い電車は何の違和感も無く「総武線」でした。総武快速ができた今は総武緩行線という言い方も登場したようですが、路線としてはあくまで「中央緩行線」でしょう。さて、この101系の前照灯は面白い形ですね。これまでに純粋な(?)「豚の鼻」形ヘッドライトは何例も見ていますが、このような「元のライトケースの中に豚の鼻を嵌め込んだ」形のものは初めて見たようです。とりあえず「丸に豚鼻」とでも呼んでおきましょうか。



さっしいの鉄道風景 < 2518 > 国鉄 中央本線 千駄ヶ谷 昭和 57年 12月 2日

早速また「丸に豚鼻」。いつの間にか増殖しているのでしょうか。しかし、この東京行きの中央線の特別快速は101系ではなさそうですね。103系は登場当初から、101系と比べて前面の窓の左右の幅が広く、上下は小さく、表情がほんの少し引き締まったイメージでしたが、これも103系でしょう。集中式クーラーが搭載された冷房車の編成ですね。その向かう先、画面の奥で線路を跨ぐのは、「無名橋」という名の人道橋です。本来は「大番町通跨線道路橋」と呼ばれ、神宮外苑側と慶應病院側とを結ぶ橋だったらしいのですが、首都高の建設に伴って通行が制限され、人道橋に変更されたように思われます(未検証)。その橋の下を、こちらへ向かって黄色い電車がやって来ます。



さっしいの鉄道風景 < 2519 > 国鉄 中央本線 千駄ヶ谷 昭和 57年 12月 2日

今回は変なサイズの画像ですが、これは1本のフィルムの最後のコマで、撮った後、これ以上巻き上げられなくなってしまったという事情があり、右端をカットしました。豚の鼻形ヘッドライト(シールドビーム)の103系は既に見ましたが、今度は高運転台が来ましたか。総武線にも配置されていたとは知りませんでしたが、最前部(乗務員室ドア後方)に戸袋窓があるので、ATC準備車ではないようですね。冷房機も搭載され、総武線利用者にとっては101系より有難い存在でしょう。もっとも、今は冬で、これからますます寒くなる季節ですが。さて、ここで一旦フィルムが終わったので、新しいものに入替えて撮影は続けますが、次回からは、ちょっと残念なことになります。



さっしいの鉄道風景 < 2520 > 国鉄 中央本線 千駄ヶ谷 昭和 57年 12月 2日

このコマから別のフィルムに変わりましたが、困ったことに、このネガは保存状態が大変悪く、色補正が困難で、全くお手上げの状態です。この先しばらくは、お見苦しい画像が続きますが、ご容赦を(笑って許して~♪:和田アキ子)。頑張って補正はしてみますが、何やら昭和30年代あたりの色褪せ写真のように見えてしまいますね。それはともかく、今度やって来た中央快速は、ごくごく普通の101系の10両編成でした。ただし、行先は「青梅」ですね。青梅線と聞くとローカル線というイメージを抱いてしまいますが、青梅へ直通する快速電車も、比較的コンスタントに運転されているようです。立川から南方を迂回して西立川へ抜ける連絡線にも、また乗ってみたいものです。



さっしいの鉄道風景 < 2521 > 国鉄 中央本線 西荻窪 昭和 57年 12月 2日

さて、今度は一気に移動して、西荻窪まで来ました。相変わらずホーム東端で電車を撮りますが、フィルムはますます酷い色調になってしまいました。前々回あたりと比べても全く違う色に見えてしまいますが、ふと思い出しました。子供の頃、飯田橋駅のホームから、横を通過して行く快速電車を羨ましく眺めたものでしたが、その中の一部のユニットだけがこんなふうに色褪せている編成に時々出会ったものです。編成の組替えなどの事情によるものでしょうが、赤系の塗装は変色しやすいようですね。編成美という点からは感心できませんでしたが、面白い現象でした。今回の高尾行きの103系もまた「丸に豚鼻」のヘッドライト。短い間に、101系・103系、併せて3例に遭遇したことになります。



さっしいの鉄道風景 < 2522 > 国鉄 中央本線 西荻窪 昭和 57年 12月 2日

中央緩行線を上り方向へ走って行くのは、地下鉄東西線直通の西船橋行き、営団の5000系車輛。自分が今回、ここ中野以西の高架複々線区間まで来たのは、この電車を撮りたかったからだと思います。生まれ故郷に初めて地下鉄(高田馬場~九段下)が開通したのは、小3の冬(昭和39年12月23日)のこと。自宅から(都電の電停よりは)少し遠い「神楽坂」駅まで父と一緒に歩き、乗ったのは3両編成の5000系でした。それ以来、この電車のファンになり、ペーパー車体の模型も自作しましたが、地上を走る姿は比較的早く撮ったものの、カラー写真は初めてです。もっとも、大部分がステンレスで味気は無いですが、前面の青帯は、いつの間にか、こんなに太くなっていたんですね。



さっしいの鉄道風景 < 2523 > 国鉄 中央本線 西荻窪 昭和 57年 12月 2日

やっとのことで補正したこの写真も、「色の道」について語るには相応しくないようですが、営団地下鉄東西線のラインカラーは、青というよりは水色に見えますね。本来は煙草の「hi-lite」の包装紙の色による「ハイライト・ブルー」だそうですが、後にはもう少し濃いめの「スカイブルー」に変更されたとも聞きます。さて、この4日後の12月6日、妻と長男が滞在している名古屋の実家から、第2子が誕生したとの知らせが届きました。義母は電話で「また男の子なのよ」と、少し申し訳なさそうに言っていましたが、いえいえ、お世話さま。…というわけで、我が家に、次男坊が生まれました。それでは早速、会いに行かなければ…と、自習課題など仕事の都合を付けて、「配偶者出産休暇」を取りました。



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